追悼のページ

 

ペットロスに関するリンク 虹の橋

 

このページは飼い主さんから寄せられた貴重な写真と文章をもとにしています。

皆さんがこのページを読んでくださる事が、亡くなったペット達の供養になればと思い、

このページを作りました。 合掌

 

2010年

ルイの思い出

  天からの贈り物

 

 6年前のある日、妻が捨て猫を拾ってくるという形でルイは我が家にやって来ました。

当時中三の長男が他県の私立中を受験したものの、寮生活への不安もあり、

親としては子離れの決心がつきかねる心理状況でもありました。

そこへやって来たルイが後押ししてくれたおかげで、子育てに最も必要な

子離れの第一歩を踏み出すことが出来たといっても過言ではありません。

あれからルイは、色々なエピソードで家族を楽しませてくれました。

最後は猫白血病の再燃という形で最後を迎えました。

まるでそれは神が妻にとって心の支えが必要と思う時にルイを地上に遣わされ、そして

妻の心の成長を見届けた神がいつかは迎えるルイとの別れにも妻が耐えられると判断した時に

天に召されたのだという気がしてなりません。

どのような別れにも心残りはありますが、今はただルイに感謝の気持ちで一杯です。

 

 

2003年

スマイリーの思い出

                     

スマイリーは12年前の4月、母の日のプレゼントとして、我が家へやってきました。

犬好きは、人には負けない私でしたが、ビーグルは初めて。

でも、彼の目を見たとたん、彼の名を、スマイリーと決めてしまいました。

その時、読んでいたスパイ小説の主人公の、ジョージ・スマイリーに因んだのです。

目に表情が直ぐ出てくる可愛い彼なのです。

その彼が、去年の7月、肉腫という思いがけない病気に罹り、

優しいけれど凄い腕前の原先生に、大きな手術をして頂き、

お腹の中から大きな大きな腫瘍を、取り出して頂き、命を助けていただきました。

先生の必死の治療で、ある程度の回復にはこぎつけましたが、肉腫という病には勝てず、

原先生の必死の治療の甲斐もなく、天国へ行ってしまいました。

原先生、看護婦さんの優しいお世話を、沢山頂いたのが、せめてもの、心の安らぎです。

今はまだ、、これを書いているだけで、涙が出てきて。

スマイリーどうしてる?

 

              ケンちゃんの思い出

 

 

ケンと私が初めて出会ったのは、私が9歳の時でした。

知り合いの家に子犬が生まれたから見ておいでと父に言われ、

母と一緒に見に行くと、三匹子犬がいました。

9歳の子供が子犬を見て、そのまま帰れるはずもなく、

母が、「この子が一番毛並みがいいから」と選んだ子がケンでした。

今思うと、9歳から23歳まで、そんなに長い間ずっと一緒にいたんだなと、

驚いてしまいます。

朝5時に吼えたり、コードを噛み切ったり、お世辞にも利口な犬だったとは

言えないし、愛想も悪いし、弱虫だったけど、馬鹿な子ほどかわいいとは

このことで、憎めない子でした。

体が丈夫なだけがとりえだったケンの様子がおかしくなったのは、

亡くなる数ヶ月前でした。日に何度ももどすようになり、下痢も止まらないので、

母が初めて原動物病院へ連れて行きました。

検査の結果、フィラリアと腎障害ということでした。

よく名前は聞く病気でしたが、まさかケンがかかるとは思いもしなかったので、

ショックでした。何度か点滴に通っても、検査の結果が良くならず、

先生が入院した方がいいと言いました。でも、高齢なので、入院中にも

どうなるかは分からないと言われて、ケンが慣れない病院のケージの中で

死んでしまうかも知れないと思うと、あまりにもかわいそうで、涙が止まらず、

そのときは先生がおれてくれました。

それからしばらく点滴に通っていると、少しずつケンが元気になっていきました。

以前のようには、走りまわれはしないけど、ご飯は食べられるようになりました。

しかし、病気はケンの体の中で少しずつ大きくなっていました。

GWに私は旅行で一週間ほど家を空けました。

旅行から帰ったとき、ケンは自分の力で立っていました。しかしその数時間後、

ケンは横になって、荒い苦しそうな息をしていました。

まるで私の帰りを待っていたかのようでした。本当にもう駄目だと思いました。

もう楽になってほしいとさえ思いました。

けれど、母はあきらめませんでした。

正直、母がケンのことを好きだとは思ってもいませんでした。

でもケンが病気になってから、一番心配して、一番泣いたのは母でした。

毎日点滴に通い、夜はつきっきりで体をさすってあげている時もありました。

しかし、そんな状態で一週間後、ケンは母の腕の中で死にました。

原先生は最後までよくしてくださいました。

ケンが亡くなって、もう二週間もたちますが、未だにケンがいないということに

慣れません。あたりまえの空気のような存在に、ケンはなっていました。

もっとかわいがってあげればよかったとか、後悔はあとから

あとから、わいてきます。ケンは我が家に来て、幸せだったのでしょうか?

幸せだったと思いたいな。今ごろ母犬や、兄弟達と遊んでいるのかな。

今まで一緒にいてくれてありがとう。安らかに。

 

 

 

 

 

 

 

 

トットへのメッセージ

 

  2002年3月2日(土)午前3時51分、小さなケイレンを一つして、

あなたはそのまま天国へ旅立っていきました。後一ヶ月で満17才になる、そんな早春の明け方でした。

ネコの17才といえば、たいていの人は長生きですねと慰めてくれます。

 でも、私は、今こうしてあなたへの想いを書いていても、思わず涙がこぼれて仕方がありません。

一昨年(2000年)の12月27日、食欲がなくおう吐を繰り返すあなたを病院へ連れて行ったとき、

先生から告げられた「腎臓病」と「ネコ白血病ウィルス感染症」、

これがあなたの寿命を決める病気と覚悟はしていたのに‥‥!

 あれから1年と2ヶ月。特に後半の7ヶ月、あなたは本当によく頑張ってくれました。

毎日、7〜9時間の点滴にもいやがらず、最後はむしろ喜んでいるかのように、素直に病院へ行ってくれました。

何度も危機が訪れ、特に10月12日の夜は本当に「死」を覚悟しましたが、それを乗り越えてくれました。

けれども、2月28日にはついに歯グキから出血が始まり、3月1日の午後からはケイレンも始まりました。

 それでも、奇跡が起こると信じて、あなたを看病していました。

でも、口から血を出しているあなたを見ていると、これ以上頑張れと言うのは酷です‥‥(よね!)

 もう、これ以上頑張らなくてもいいよ‥‥でも、できたら何とか生きて欲しい‥‥

私の心の中は、行ったり来たり!とても、複雑でした。

 あなたの死から1ヶ月余りが過ぎた今、やっとあなたのことが書けるようになりました。

 

  トットちゃん、あなたとの出会いは、ちょうど17年前の春、4月の初めでした。

 K中学校の自転車置き場の片隅に置き去りにされていた小さな段ボール箱の中があなたと最初に出会ったところ

でした。

体長10pぐらいの子猫が2匹、1匹は箱の中で小さな声で泣いていたあなた!

もう1匹は箱から這い出したのでしょう、自転車置き場のすぐそばの小さな溝で死んでいました。

 私はその頃、9年間かわいがっていたネコ「メリー」を病気で亡くしてから一ヶ月ほどの時!

もう絶対、動物は飼わないからときつく家族から言い渡されていました。

だからあなたを連れて帰っても、飼ってあげられないかもしれない!でも、その場に置き去りにはとうていできま

せんでした。

ただ一縷の望みと、近所の方がもらってくれるかもしれないと思い、あなたをヒザに乗せて連れて帰りました。

 その日から3日間、あなたは家へ入れてもらえず、納屋の前の段ボール箱で過ごしましたね。

小さすぎるあなたはミルクも一人では飲めず、器に入れると鼻の中へミルクが入ってしまい、

本当にあの時はどうして育てようか、悩みました。

スポイトやら注射器など試してみたけれど、結局、私の指に付けたミルクをなめて育ったのですよ。

ただし、朝と夜しか私がミルクをやれないので、ずいぶんひもじい想いをしたことでしょう。

 

 半年が過ぎて、去勢手術をするために訪れたのが「原先生との初めての出会い」でした。

『ちょっと遅いですね、もう遠くへ行くクセがついてしまっています。

それでも去勢をしたら、少しは行動範囲が小さくなるでしょう。』とおっしゃったことが印象に残っています。

あなたは今まで私が飼ったネコ(4匹目です)の中では、一番わがままで、

すばしっこくていたずら好きでしたよ。

でも、一番反応が良くて家族中からかわいがられていました。

特に名付け親である私の母とは、いっしょにいる時間も長く、ご飯をもらうのもほとんど母からだったので、

あなたは一番上手に甘えていましたね。ただ、母の胸やお腹の上で眠るクセはちょっとね‥‥!       

 原先生にもずいぶんお世話になりました。

特に「ネコエイズ」になったとき、あなたの白血球数は『800』で、

先生がおっしゃるには“今まで一番少なかった子が『1500』です、だからトットちゃんの命が助かれば私の新

記録になります。”と。

 また、あるときは食べた爬虫類の寄生虫が原因とかで、わきの下に大きな穴が開いたり、

そしてまたあるときは、頭の上に正体不明のコブのようなものができたり、

とにかくケンカが弱く、近所のネコや野良猫に噛まれて何度ケガに泣かされたことでしょう!

最後のケガでは、ケンカして左の耳が裂けてしまい、

ずいぶん長い間《エリザベスカラー?》にお世話になりましたね。原先生には本当によくしていただきました。

 

 17年間には病気やケガだけでなく、実にいろいろなことを体験しました。

あなたにとって最大の出来事は何と言っても8年前〈阪神淡路大震災の1年前〉の自宅の立替工事でしょう。

4月から8ヶ月間、今まで住んでいた家が壊され跡形もなくなり、更地となり、

そこへ新しい家が出来上がるまで、あなたにとってはまさに毎日が驚きと冒険の日々でした。

幸い、隣りに古い空家があり、食事は毎日、朝・昼・夕の三回運び、

夜には必ず1時間ほどあなたを「抱っこ」して過ごしました。

しばらくすると、あなたは時間になると決まったところで家族を待つようになりました。

そんなあなたの姿を見ていた隣のおばさんがあなたに何度かエサを与えてくれましたね。

あなたはもちろん、家族みんなが無我夢中ですごした8ヶ月間でした。

 

 家が完成して1年余りが過ぎ、やっと落ち着いてきたころ、あなたが家出をしてしまいました。

突然、帰らなくなってしまったとき、本当にどうしたらいいか途方にくれました。

今まで帰らない日など1日もなかったあなたが、3日家を空けるといよいよたいへん!

高砂市と姫路市の両方の保健所に電話をしたり、あちこち探しにも行きました。

そこの職員の方が、『小動物が3日も何も食べないでいると体が持たないから、生きていない可能性が高い』

とおっしゃったときは、目の前が真っ暗になりました。かすかな望みも断ち切られたような喪失感を覚えました。

 帰らなくなって9日目の夜、もう諦めて家の出入り口を閉めようかということになっていたのですが、

もう一晩だけ空けて待ってと私は家族に頼みました。

その晩の深夜1時前です。

聴きなれた鳴き声が大きく響き、目がさめた私が飛ぶように2階の階段を駆け下りた、

ちょうどそこへあなたが階段を駆け上がろうとしていました。

 9日ぶりに見るあなたは、少し痩せてはいましたが、目はランランと輝き、すごく生き生きして見えました。

いくら家出の理由や行く先を聞いてもあなたは全く答えてくれませんでしたね。

 

 思い起こせば、いろいろなことが次々と浮かんできます。

そして、そのほとんどが、あなたにはびっくりさせられることばかり!

だからこそ、トットちゃん、あなたには単に時間が長いだけでなく、ペットとともに暮らす喜びや楽しさ、

苦労の中に満足感や生きることの充実感を味わわせてもらえたと思っています。

 5月6日には、名古山霊苑で『生類の合同慰霊祭』があります。

私たち家族は、その慰霊祭を、あなたと別れた悲しみから一歩だけでも立ち上がるきっかけとしたいと思っていま

す。

 どうか、あなたも安らかにお眠りください。ありがとう、トット!!

 

                                (2002.4.26)